大学のあり方:ビジネス系大学教育における質保証(5)

前回の記事「大学のあり方:ビジネス系大学教育における質保証(4)」の続きです。
ここしばらくは、学生の学習能力の低下について考えています。
書籍「ビジネス系大学教育における質保証」では、学習能力の低下について、4つの意味を含んでいるとしています。

  • 基礎学力の不足
  • 学習の方法や態度の未熟度
  • 学習意欲の低下
  • 体験や社会的コミットメントの不足

今回は、この中の「体験や社会的コミットメントの不足」について考えてみましょう。
体験や社会的コミットメントの不足
社会への関心・好奇心の希薄化、情報過多のなかでの体験不足、グループ・ワークによる目的達成感の不足がこれに該当します。
正直、私の見聞きしている範囲での学生はこのようなタイプは少ないです。というのは、私の在籍している大学はその多くが社会人学生であり、社会への関心なく日常生活を送ることが困難であろうためです。
とはいうものの、私が見聞きできる範囲が限定的であるのも事実です。通信制大学ですので、普段の学生の様子を伺うことは不可能ですし、講義の中で学生とコミュニケーションするためには科目内の掲示板やディスカッション(ディベートと呼んでいます)を通じて行うしかないのですから。
そういう意味では、通信制大学は不利ですね。学生の様子が把握しづらく、こちらからのコミュニケーション手段も限定的となると、教員側からの働きかけで社会への関心を喚起し、過剰な情報の中で身を処するための体験を与え、グループワークによる他の学生たちとの交流・協働させるためにどうすればいいのか悩みます。
まぁ、私の在籍する大学はオンライン大学ですので、完全な通信制大学よりもオンラインの手段がある分だけ救いがあるのかもしれませんが。
ところで、上記に関連して少し感じていることがありますので書き残しておきます。
「体験や社会的コミットメントの不足」が原因と考えられる学生たちの現象が二つあります。ちなみにこれは私の経験によるものではなく、様々な方の言説を借用してきたものが含まれます。

  1. 主体的学習の放棄
    大学の講義を単なる作業と位置づけ、いかに省力化して学習行為(学習そのものではない)を達成するかに関心が移っている現象です。これは効率よく学習するというのとは全く異なる次元の話です。
    講義の受講を「苦役」とみなし、苦役から逃れるための裏技的な行為に終始する事が多いです。これらの行為が行き過ぎると、カンニング、代返、替玉受験などとなります。
  2. 自己中心的な学習態度
    「個人の考えの主張」が行き過ぎることにより見られる現象です。「講義を受講しているのにもかかわらず自分が理解できないのは、講義の内容をわかりやすくしていないからである」とか「世の中にはいろいろな考えがあり、学習した内容とは異なるが、自分がどのような考えを主張しようが自由だ。だから自分の考えを尊重しろ」などがあります。

教員から見て、1.の現象はうるさく言う問題ではないのかも知れません。授業料と苦役(受講)で単位と卒業を買っていることを正当な取引と思っている学生にかけるべき言葉はありません。(私はそういう現象に寛容ではないので、うるさく言いますが)
ただ大学として、この取引が常態化するのは良いこととは思えません。それはディグリーミル、ディプロマミルに近づく行為です。
2.は教員側に歩み寄りが必要が部分もあります。誰にも理解できない講義をし続けるのは学生のニーズを満たしているとは言えないのです。少なくとも学生の理解を深める講義は必要でしょう。
しかしながら、理解を深めることと難易度を下げることは別です。特にビジネス系科目の場合、見聞きした物事を忠実に再生できることは「理解」ではないと考えます。忠実に再現させるために難易度を下げるというのでは、目的を見失っています。
ビジネス系科目における理解とは、自らの意思で活用できることだと思います。応用と言ってもよいでしょう。もちろん最初は「再生」に近い行為なのかもしれません。ただしゴールはもっと先にあるのです。
「自分の考えを尊重しろ」という方は、実際に私も遭遇しました。教員としてではなく、学生時代(ビジネススクール)の同期生の中で比較的お年を召した方がこのタイプでした。企業内で管理職として部下に命令する習慣がついている方は、学習の場でも同じような振る舞いをする傾向にあります。ただ組織の中で指導的な立場にいない方で同じような振る舞いをする方もいらっしゃるようです。どうなのでしょう、単に身の程知らずなだけなのでしょうか。