はじめに
百田尚樹氏の発言がニュースになっている。一般的なニュースサイトだと記事が消えてしまうかもしれないので、関連するハフィントンポストのリンクを載せておく。
発言内容は新聞の存在意義に疑問を呈するものなので、新聞をはじめとするマスコミの反応が激しくなるのは仕方ないところだと思う。
実は私はこの件で違うことを考えていた。社会的自由についてである。と言っても、ルソーの社会的自由に関する考察ではなく、もっと下世話な話題なのだが。
社会的自由とは
ルソーはこう言った。社会契約論だね。
「人間は生まれながらにして自由であるが、しかしいたるところで鉄鎖につながれている」
この場合の鉄鎖が「社会契約」と呼ばれるものであり、社会契約により人間は自然的な自由(本能の赴くままになんでもやっちゃえる自由)を奪わるけれども、結果的に他者の権利を侵害することを制限する。つまり権利において平等となるわけだ。
この社会契約の範囲が拡大することで、国としての秩序が保たれるのだとルソーは考えた。
そう考えると、百田氏が物騒な発言をすること自体も尊重されるべきだし、マスコミがけしからんと憤ることも尊重されるべきなのだろう。
じゃあ、社会契約により互いの自由を尊重しましょう、となった場合に、その線引きがどちらかに偏ることはよろしくないことは想像できるだろう。そこで、ルソーは「一般意志」という概念を示した。
つまり、一般意志と呼ばれる「基準」が存在するというのである。私なりに言えば「ふつーそうでしょ」というものだ。
この一般意志に関する解釈はいろいろあるので、一旦Wikipediaのリンクを載せておく。
一般意志は実存するものではなく、概念と捉えるのが適当だろう。
一般意志はつねに正しく、つねに公の利益を目ざす
とルソーも言っているとおり、一般意志は常に市民の力でメンテナンスしていかなければならない。そのメンテナンスの際に、パワーバランスが影響するのだということも悲しい現実として留意しておかなければならない。
この一般意志を運用しやすく明文化したものが「法律」であると解釈して差し支えないだろう。
もう少し下世話な話題
実は私は百田氏がこんなにタカ派な考えを持っているとは知らなかった。私の乏しい知識では「探偵!ナイトスクープ」の放送作家であり、おもしろいおっさんという印象だ。
その「おもしろいおっさん」が小説執筆に打ち込んで、ベストセラーを生み出した。というサクセスストーリーの主人公だと思っていたのだ。
私が気になるのは「百田氏はおもしろいおっさんの時代から、このようなタカ派の考えを表明し続けていたのか」という点である。もちろん、脈々と自身の思想を大切にしていたのかもしれないが、外野から見ると急変しているようにも見えるのだ。
考えのベクトルはともかく、社会の中である程度強いメッセージ性を持つ発言(一般意志から離れたものが多い)をするのは、相応の代償を払う覚悟(取引コスト)とその余裕がなければできない。と私は考えている。
この考え方は、オリバー・E・ウィリアムソンの「取引コスト理論」に通じるものである。ちなみにウィリアムソンの著作はこれ。
多くの人は心の中にやるせない思いや不満を抱えていても、それを発することができないのではないか。それは社会の中からパージされてしまうという取引コストの大きさから来るのである。
下世話な言い方をすれば、百田氏の発言は小金を持ち、他者に対する影響力を持っているからゆえにできることなのかもしれない。取引コストを払っても十分過ぎる余裕が有るのならば、自然的な自由に基づく発言も納得できる。
マトリックスの世界
さらに妄想は膨らむ。
百田氏は例外として、この国の多くの人々はその場の「空気」を読み、言いたいことを言わずに大きな流れの中に迎合しているような印象を受ける。
もちろん私だってそうだ。取引コストを支払ったら、もう何も残らないぐらいなのだから。
そこでふと、映画「マトリックス」の世界観を思い出したのだ。
マトリックスの世界では、人間はコンピュータの動力源としてのみ生存させられ、その代わり人間には仮想現実の世界が提供される。おそらく仮想現実の世界にいる人はそれ自体に何の疑問も抱かないのだろう(それが全てだろうし)。
もしかして、私達はこういう世界に生きているのかもしれない。
ぬるま湯につかって、改めて考えることをせずに日々を過ごし、時折何かに気づいても「空気」を読んで気づかないふりをしているうちに、茹でカエルになってしまう私から見れば、(発言内容はともかく)百田氏の振る舞いはマトリックスの世界におけるネオのようなのかもしれない。
羨ましいかって? それはどうだろうねぇ。