「仕事は見て盗め」について

はじめに

先日、フィットネスクラブで走りながら、フジテレビの「ワイドナショー」という番組を観ていたのだが、その中で興味深いやり取りがあったので、自分なりに考えてみることにする。
テーマは「仕事は見て盗め」という考えに対する賛否である。
#なんと親切なことに、一連のやり取りを書き起こしている方がいるので、リンクを貼っておく。
「仕事は見て盗め」をネガティブに捉えるから教えてくれない(2015/06/14)
最初は「『仕事は見て盗め』だなんて、教える側の怠慢だ」という論調で進むのかと思っていたら、話は意外な方向に進む。

見て盗むのは「仕事」ではない

意外な方向に進んだ話題については、あとで考えるとして、私はこの話題をOJTとOFFJTの棲み分けの問題だと認識していた。
そのため、私の意見は松本氏に近い。

「漫才は教えられない」

私は漫才をやったことがないけど、なんとなく理解できる。なぜならば、漫才は本人にとっては「仕事」だが、観客から見れば「芸」だからだ。
そもそも「仕事は見て盗め」というのは、いつだれが言い出したことなのだろうか? もしやこれは「芸は見て盗め」の誤用から始まったものではないのか。
私の妄想はこんな感じだ。

  1. テレビか何かで、職人とその弟子についての番組があり、
  2. その番組の中で弟子が「師匠の仕事を見て盗んでいます」的なコメントをし、
  3. その番組を観ていた人が「職人の手わざ(芸)=仕事」であることに気付かず、
  4. 「仕事は見て盗むもの」という意識が芽生えた。

そう考えると「見て盗む」対象を明らかにしておくことが必要なのだろう。逆に「見て盗むべきでない」対象もあるということだ。
つまり、「見て盗む」→OJT 「見て盗むべきでない」→OFFJT なのだ。
私がこれまで担っていた職業訓練はOFFJT(講義と演習)であり、企業研修も含め多くはこの形態で訓練が行われる。ところが、OFFJTは相応のコストがかかるのだ(金銭的コストだけでなく、時間的なコストもかかる)。
結果、OFFJTはおざなりになり、収まらない部分はOJTという形で先送りされているのが現状なのだろう。「見て盗め」はこれを正当化しているだけなのかもしれない。

話は意外な方向へ

番組では、「教える、学ぶ」という関係に焦点が移り、出演者の考えが示されていた。

松本氏「この人から学びたいと勝手にこっちが決めて吸収するもんだとは思う」
坂上氏「ちゃんと指導してほしいこともありますって言うんだったら、教えたくなる子でいてほしい」
武田氏「仕事は見て盗めっていうよりも、先生を見つける能力っていうのが人生にはある」
市川氏「仕事見て盗めって、教えないよって意味じゃないのでは」
前園氏「全部与えちゃうとたぶんそれで終わっちゃうので、自分で考えることがたぶん大事」

なるほどねぇ。ひとつひとつ納得してしまった。
ただ、出演者はみんな「芸」をもって、それを売って生きていける人なので、対象はやはり「芸」なのだと思う。