営利追求や大学存続という現実に対して「教える側の気概」はあまりにも無力だ

Contribution University

はじめに

最近マイナンバー関係のエントリーが多かったので、他の話題にも目を向けてみたい。ということで、久しぶりに大学教育の話をしよう。

きっかけはこの記事。

なぜ日本の大学は、学生に甘い教育しかできないのか(ダイヤモンド)

この種の話題は今までも言われてきたことだし、大学の現場にいる教員の多くは半ば諦め気味でこの状況を受け留めているのではなかろうか。ということで、今回はちょっとグチ気味である。

今回採りあげたい部分

実は元々のダイヤモンドの記事のポイントは、英国と日本の社会構造の違い(階級社会か否か)に言及した、学びの意義に関するところであり、なるほど納得できる部分が多い。

ただ、私はこの記事の前提とされている「もっとベタな部分」に目が行ってしまった。

少し長いが引用してみよう。

ただ、日本の大学は入学試験が厳しいといっても、大学数が約600あり、到底大学と名乗れないレベルの学校も多く存在している。多くの若者が「大学生」と名乗れるようになっているのだ。一方、トップレベルの大学であっても、できるだけ落第者・退学者を出さないように、さまざまな配慮がされている。

教員は、学生がわかりやすいようにレベルを落として授業をするよう求められている。授業外でも、授業について行けない学生に対して、大学側からさまざまなサポートのシステムが用意されている。単位の取れない学生は、何度も呼び出して丁寧な個人面談をする。親にも連絡がいく。父母会を開催して、親に子どもの学びの状況を丁寧に説明する学校もある。(記事3ページ目上段)

以前話題になった「L型、G型大学」の話題にも関連するが、日本の大学の9割以上は教育を主目的としている。つまり学生は「学ぶため」に大学に来ているのだ。

ちなみに私が以前教員として在籍した大学は、インターネット上で講義を行う通信制の大学であり、大学で学ぶための基礎学力を事実上問わない(入試がない、あってもほとんど機能していない)で入学をさせていた。

私が担当していた科目は、経営学とマーケティングに対して簡単な数学や統計学のテクニックを使うことで、論理的に思考することを求めたものであり、演習の要素を多く取り入れたものだった。いわゆるビジネススクールの科目に相当するものである。

もちろん難易度は大学レベルであり、数学や統計学は事前の学習なしで理解できる程度から順を追って説明するように科目を設計していた。これは、この大学の学生のほとんどが(大学卒業を目指したい)社会人であり、大学での学びがすぐに実践できる機会があったことが理由である。

どこにでもいるのかもしれないけど、困った学生

そういう意味で私の科目は「できるか否か」ではなく「取り組んだか否か」で評価するように心がけた。これはこの大学における私が受容できる最大限の譲歩であり、私自身も納得できるものであった。

学生の半数以上は真面目に取り組んでもらっており、学生からも満足度が高い科目であったと自負している。

ところが、やはり一部の学生は最初からやる気がないのか、本当に基礎学力が不足していたのか、困惑してしまうような取り組み方をする者もいる。

(例示しようかと思ってたけど、本当に大学のヤバさが伝わってしまうので、またの機会にします)

そういう学生は放置して、真面目に取り組む学生に目を向ければいいのだが、この大学は単位制で授業料を徴収しているので、成績不良だと再履修のために再びその単位分の授業料を支払わなければならなくなる。ここで学生たちは急に「カネを払っているのに」と消費者の感情が湧き上がってくるようだ。

一般的に通信制の教育機関の場合、学習のモチベーションを維持するのは大変だ。アメもムチも説得も応援も総動員して引き留めなければ、受講生はフェードアウトしてしまう。そういう意味で、不合格による再履修というのは受講生の心を折るのに十分すぎるイベントであることは容易に想像できる。

運営側も受講料が収益源である以上、途中でフェードアウトされるのは経営的にもダメージが大きい。結果「続けさせる」という目的が優先され、様々な評価が歪むことになる。

つまり「カネで学習機会を買う」のではなく「カネで単位を買う」という考えに行き着くようなのだ。こういうのをディプロマミル(学位製造所)ということもある。

私はこの大学をディプロマミルと呼ばせたくないので、いろいろと悩み、少なくとも「取り組むことの重要性」を学生に説くように心がけた。

学生に向けたメッセージ

ここで、当時私が学生向けに掲示したメッセージを引用しておこう。少し長文。

今回も少し早いですが、講義後記を残しておきます。

この季節、来学期の学生募集のための大学説明会が始まります。
私もいくつかの会場でお手伝いすることになっており、さっそく、先週都内で大学説明会に行ってきました。

そこで少し違和感を覚えたのです。

「○○大学で学び続けるには、学習時間をどのぐらい確保すればいいの?」という説明において、大学スタッフが文部科学省が定めた基準を根拠に説明していました。

「一科目あたり毎週一時間の学習が必要」

しかし、これは間違いです。正しくは次のとおり。
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo4/00 2/gijiroku/011101/01110l.htm

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第21条 各授業科目の単位数は、大学において定めるものとする。

2 前項の単位数を定めるに当たっては、一単位の授業科目を45時間の学修を必要とする内容をもって構成することを標準とし、授業の方法に応じ、当該授業による教育効果、授業時間外に必要な学修等を考慮して、次の基準により単位数を計算するものとする。

一 講義及び演習については、15時間から30時間までの範囲で大学が定める時間の授業をもって一単位とする。

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きちんと解釈すると、○○大学の専門科目は15回講義で二単位となりますので、トータルの学修時間は90時間必要となります。90÷15=6で、1回の講義に対して授業時間を含む6時間の学修が必要となります。

また、授業時間については、二単位取得する にはトータルで30時間から60時間必要です。1回あたりで換算すると、30÷15=2 60÷15=4 ですから、2時間から4時間の授業時間が必要となります。

みなさん、学修時間を確保できていますか?  授業時間はどうですか?

もちろん「授業の方法に応じ、当該授業による教育効果、授業時間外に必要な学修等」が考慮されますので、多くの大学は教育効果があることを根拠として、1回あたり概ね90分の講義を行っています し、授業と自己学習の時間を合わせて、6時間の学修を行っていると信じています。

○○大学は、1回あたり60分程度の講義と30分程度の小テスト回答時間、合わせて90分の授業時間として科目を構成しているようです。
実質的な小テストの回答時間が10分以内であることを考えると、○○大学の仕組みが他の大学よりも教育効果があるのでなければ、基準に沿った授業時間が確保されているのかは疑問です。

ということで、私は基準に沿った学修時間の確保を促すべく、自己学習にふさわしい難易度の課題を設定することを心がけています。
もちろん私はみなさんが学修時間を確保していると信じていますが。

ところが残念なことに、過去には勘違いされている受講生の方もいらっしゃいました。

「私は社会人で仕事をしながら○○大学に行っている。忙しい中、時間を見つけて頑張っているのだから、課題成果物のクオリティについては大目に見てほしい。忙しいんだから、文章なんて丁寧に書いてられない。」

なるほど、そうですね。でも働きながら大学に行こうと考えたのは、この方自身です。やめたければいつでもやめられますし、もっと手軽に大学卒業(だけ)を得たいのであれば、他にも大学はあります。

それに、私自身は取り組み自体を評価するという姿勢なので、課題成果物(レポートもフィードバック課題も)のクオリティについて、大学生として許容できないレベルでなければ、あまり厳しいことは言いません。
もっとも、きちんとした日本語を書くのは、大学生として最低限求めるレベルですけど。その能力がない、能力があってもやらないのであれば、行くべき学校は大学ではありません。

○○大学は、一般よりも短い時間と労力と能力で大学を卒業できる「人生のバイパス」ではありません。もちろん、ディプロマミル(学位製造所)でもありません。

みなさんは、自分が卒業した大学が「インチキ大学」「偽大学」と呼ばれても構いませんか? 学ぶ意思と考えと行動が、大学を価値ある経歴にも、人生の黒歴史にもさせるのです。

大学側からの要求、これが現実なのかも。

ここから先は、事実だけを簡単に書いておく。もしかしたら、どこの大学でもある話かもしれないので、私自身はこの大学を批判するつもりはない。

このメッセージを掲示したのち、学長から呼び出しを受ける。そして、恫喝されこのメッセージの削除を強要される。

その時の学長の発言が、「あんたも、大学生の時にはそれほど真面目に勉強してこなかったんだろ? やってないのに、偉そうなことを言うな」というような内容だったと記憶している。(音声も録音してあるはずだけど、探しだすのが面倒だ)

また、「学生たちには合格するまで追試を行い、指導しろ」と強要され、副学長からは、その結果は教員の評価(つまりボーナス)に反映する旨を通告された。

正直、私は学長と副学長のこの発言に失望し、大学と距離を置くことを決めた。

なぜならば、私自身はどちらかというと経済的に貧しい環境の中で生活費と学費を奨学金とアルバイトで補いながら、それでも何とか勉強していたタイプの学生だったからである。もちろん能力の限界を感じることも多々あったが、当時の自分の精一杯だったという思いはある。でも、私自身は自分の能力不足を大学に転嫁するようなことはしなかった。

ただ、今ならば自身を持って言える。まずはそれを受け入れてしまう大学にどれほどの価値があるのかを考えてみるべきではなかろうか。

学長の発言は、私自身のこれまでの生き方を否定するものだと受けとめたし、営利追求や大学存続という現実に対して「教える側の気概」はあまりにも無力であることを証明したものだと認識した。定員割れが続く大学はそれぐらい行き詰まっているのだ。

ちなみに「合格するまで追試をすること」について私自身反対するものではないが、そもそも私の科目は講義の中で示した演習課題を評価するものであり、取り組まない学生に対して指導するとしたら、「課題に取り組みなさい」ということしか言えない。大学生に対して言うべき内容とは思えないが、現実を目の前にしたら、それも仕方ないのかもしれない。

まとめ

ちなみに私が指摘した「必要な学修時間」に関する説明は、後日是正されていたので、もう間違った説明はしていないと思う。

ただ、そもそもの大学の運営ポリシーに変化があったのかは確認できていない。変化がなければ、いかなる大学も沈んでいくだけである。

 

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