動物園の象
遠くから、がん、がん、とまるで鉄の扉を打ちつけるような音がする。あたりはもうずいぶんと薄暗くなってきた。そろそろ動物園が閉まる時間になるのだ。 私はただ広いだけの園内をぶらぶら歩きながら今日一日の事を考えていた。いつものように家を出て、いつもの電車に乗った。うとうととして、気がついたら自分の降りるはずの駅はとうに過ぎていた。だからここに来たのだ。それだけの事である。 自分が本当につまらなかった。 がん、がんという音は一定の間隔をあけて単調に続いていた。 会社勤めを始めてからは、動物園なんて行くことがなかった。私はずっと園内を歩き回っている。今、ここに自分がいるということが、なんだか特別なことのように思えて、落ちつかなかった。同時に、今の自分に変な息苦しさを感じた。 がん、がんという音が段々近くなってくる。夕暮れが近づいてきたあたりからこの音が鳴り始めていたのだ。 急に目の前が広がった。動物園の一番奥にある原っぱにたどり着いたのだ。 「あっ!」 私は短い叫び声をあげた。 立派な角を持っているオス鹿だった。オス鹿が鉄の柵に向かってただひたすら自分の角を打ちつけているのだ。がん、がん、がん。乾いた音が響きわたる。そしてその音は途切れることがなかった。 私の息苦しさは絶頂に達した。そして、思わず駆けだしていた。来た道をどんどん引き返す。力強く角を打ちつける鹿の姿が頭から離れなかった。 象の小屋の前まで着いた。ふっと一息ついた瞬間、どきりとする。 目の前の象があのがんがんがんという音に併せてバスン、バスンと足を踏みならしているのだ。象はじっと私を見つめている。周りに人の姿はない。夜がだんだん近づいてくる。園内に「蛍の光」が鳴り始めた。 象の目は穏やかに語りかけてきた。 「人間よ。夜は貴様の来るところではない。わしはここで産まれて、今まで生きてきた。狭い柵の中がわしのすべてだ。他は何もわからない。でも夜になると、見たことのない草原の風景が頭の中によみがえってくるのだよ。 わしだけじゃない。あのオス鹿だって広い大地を命がけで走りたいのだろう。風切り羽を切られた鳥たちも……夜は貴様の来るところではない。これからわしらの時間が始まるのだ」 遠くからオオカミの遠吠えが聞こえる。鳥たちが騒ぎ始めている……そうだったのか。この息苦しさのわけは。 私は草原に立つ一頭のライオンを想像してみた。ライオンはネクタイをして、鞄を持っている。そしてライオンは象に背を向けると一目散に走りだした。
(C) KAWAGUCHI Hiroyuki 1995
Last modified 2004-05-28 03:27 PM
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